外反母趾が増えた日本。西洋靴が伝わった歴史について・・・
外反母趾になった8割の人が女性といわれています。
ヒールのある高い靴、おしゃれ靴など女性にとってはファッション性のある靴を履くことがステータスだという人もいると思います。
しかし外反母趾は靴を履く習慣がなかった日本では聞いたことがないものでした。
今回は「外反母趾が増えた日本。西洋靴が伝わった歴史」についてお伝えします。
外反母趾が伝わったのはいつ?
日本で靴文化が定着したのは第二次大戦後で急速にアメリカ文化が取り入れられ増加しました。
そして日本人が靴を履く習慣が一般的になりました。外反母趾は靴を履く習慣がある欧米人に多かったのですが日本人にも増えてきました。
日本の靴文化はいつから?
日本が洋式の靴が履かれるようになったのは江戸時代末期から明治時代の初期頃です。
日本人で洋式の靴を履いたのは袴に靴姿の坂本竜馬だといわれています。
洋式の靴は明治維新後、華族の洋装に取り入れられ、一般にも広まっていきました。
明治時代に日本で西洋式の靴が作られるようになった
1870年(明治3年)3月15日、東京築地に初めて近代的な靴の工場ができ国内で靴の製造が始まりました。最初に大量に造られたのは 軍靴でした。そして華やかな洋装の服にふさわしい男性用・女性用の靴 も生産されていました。
しかし一部の高級階層の人々にはハイカラとして伝わったものの、庶民が靴を履く機会は徴兵による軍隊生活の期間にほぼ限定されています。
そしてその靴は「よくない靴」を改良無しに長年支給して来たことで庶民にとって「履き心地の悪いもの」との印象を与えてしまい西洋の靴の普及を妨げる要因ともいわれています。
この時代に西洋の靴が広がることはありませんでした。
いつから草履や下駄を履くようになったのか
江戸幕末前は西洋靴ではなく草履、わらじ、下駄など裸足で鼻緒がついた履き物でした。
「草履(ぞうり)」や「草鞋(わらじ)」などは平安時代あたりから下層役人に使われていました。
武家社会でそういった「鼻緒がついた履物」が常用されるようになってから下駄とともに一般化していきました。江戸時代に一般的な履物は草履と下駄でした。
しかし武士以外は下駄を履いていけないというルールがあったようで庶民は主に草履を履いていました。下駄は雨の日の雨水避けとしても履かれていたようです。
日本の雪が降る地域に伝わるブーツのような履き物
「雪沓(ゆきぐつ)」は雪が降った地域で使われている「わら」で出来た履き物です。
「ゆきんこ」が履いている履き物といえばイメージが沸くかもしれません。
足首までの「浅沓(あさぐつ)」や脛まで覆う「深沓(ふかぐつ)」のような、ブーツタイプから「藁沓(わらぐつ)」まで地方の雪質の違いや用途に応じて様々なパターンの履き物が作られていたようです。
深沓でもぬかってしまうような雪の深いところを歩くときにはカンジキとあわせて履いていました。
日本の靴下文化は「足袋」
草履・わらじは裸足で履く習慣がありますが、下駄を履くときは足袋を履くことがあります。
最近「外反母趾」にならない対策として5本指、足袋スタイルの靴下が販売されています。
足袋は昔から伝わる日本独特の靴下といえるでしょう。
足袋の原型となる履物は平安・室町時代から存在していました。
江戸時代には綿や絹の布素材で足袋が作られ始め、明治時代に入ると一般庶民にまで広く流通しました。普段用として商品を販売し大流行したようです。
古代よりくつの文化を持ちながらも日本で西洋の靴が発達しなかったのは、日本人の「生活習慣」が原因ではないかと考えられています。
それは「室内で履き物をを脱ぐ」という習慣
欧米では家の中でも靴を履いている文化がありくつが発達したのとは対照的に、室内・家の出入口で履き物を脱ぐ文化の日本では下駄や草履などのほうがすぐ着脱できるということで便利だったようです。
また靴は湿度の中は高くなり、足が蒸れやすい湿気のある日本の気候に合わず日本で靴が発達しなかった原因の一つかもしれません。
日本人が大切に守っている住まいの文化の一つに、「履物を脱いで住まいに入る」という文化は現在の今も引き続いています。
明治維新以降、日本では住宅の洋風化の傾向がみられ、さらに戦後から高度経済成長期にかけても欧米化が進みました。しかし欧米のように住宅の内部でも履物を履いたままの生活は日本では受け入れられてこなかったのです。
まとめ
最近は外反母趾になる人も増えてきました。しかし家では靴は脱いでもスリッパや靴下を履いている時があります。外では靴と靴下・ストッキングなどで足を締め付けられ、さらに室内でもスリッパや靴下で締め付けるより足の為には裸足でいることがおすすめです。
しかし寒い季節も近づいています。足を刺激して氷のような足先からカラダの芯から温めて新陳代謝をあげたいですね。